石川・門前の有線放送電話終了
昨年の能登半島地震で避難誘導などで活躍し、輪島市門前町で三十六年間にわたって住民に利用されてきた有線放送電話が九月末、業務を終えた。震災直後、つながりにくくなった固定電話や携帯電話に代わり、安否確認などで重宝された黒塗りの電話機。毎日朝昼晩にスピーカーから流れたお知らせ放送が聞かれなくなった今、住民からは「時代の流れとはいえ寂しい」との声が聞こえる。
「これにて終了します。長い間ご利用いただきありがとうございました」。
九月三十日午後七時半、有線放送電話の最後の放送が流れた。「あっけない終わり方だったので、逆にいろんな思いが込み上げてきた」。最後の放送原稿を読み上げた川原とも子さん(37)は感慨深げに語る。
昨年三月二十五日の地震発生直後、放送室に駆け付けた川原さんは、避難や余震の注意を呼び掛けた。その後の放送では被災者を励ましたいとの思いから言葉に力がこもったという。原稿は今も大切に保管している。
「被災して、頭の中が真っ白になった時に聞いた、普段通りお知らせを伝えるやさしい声に少しほっとさせられた」。自宅が損傷し公民館に避難した同町道下の三島菊郎さん(69)はそう振り返る。
有線放送電話は、旧門前町内の固定電話が約二割しか普及していなかった一九七二(昭和四十七)年、町が導入した。ほぼ全戸に張り巡らされ、各戸の有線電話機に付いたスピーカーを通じ、町内の出来事やお知らせを毎日三回放送。山間地が多くて回覧板を回すのが困難だった同町で重宝がられた。
携帯電話の普及に加え、設備の老朽化で故障が相次ぎ、業務継続が困難になっていた。音声告知サービスを備えるケーブルテレビの整備で役割を終えた。
今月からは同市ケーブルテレビで音声告知サービスが試験的に導入された。もっとも、同サービスは災害など緊急時に限られ、生活に溶け込んでいた有線放送電話と違う。住民からは声によるきめ細かい情報提供がなくなったことに不安の声も聞かれる。
門前防災センター内の有線放送電話室は今月末に閉鎖する。開局に携わり、旧町役場退職後も技師として修理に飛び回った井上捷紀さん(65)は「時代の流れだから。でも寂しいね」と話した。
(北國新聞・2008,10,7)
志賀・富来領家町 喜びと苦労分かち合う女性4人で公演招致富来領家町の富来川沿いの一角、八月に新装開店した小間(こま)呉服店の店先で、プランターのヒマワリが来店客を迎えている。同じように被災した女性たちからの贈り物。「元気を出して」と、励ましを込めた黄色い花が秋風に揺れる。
ヒマワリの種は領家町の木下陽子さん、石原郁子さん、高木直子さん、高木泉さんの四人が植えた。品種名は「ビッグ・スマイル(大きな笑顔)」。プランターで育てて配り、川沿いにも植えた。
五十代半ばから六十代初めの女性たち。仮設住宅に住んだり、仕事場が全壊したり。役場に何度も電話し、訪ねもした。そのたびに感じる脱力感。増える書類の山。同じ思いを抱く人と分け合いたい思いがあった。「ばあちゃんコント」で知られる金沢市の御供田幸子さん一座を招こうと決めた。
「ヒマワリは暑い盛りに頑張って咲いている。コントですべて忘れて笑ってもらおう」と。時間はなかったけれど走りだした。
種をまくころ、他のヒマワリはもう咲いていた。ポスター、ちらしは手作り。夫や家族、地域の人が手を貸した。「準備の間は地震を忘れられた」
八月二日、領家町コミュニティセンター。畳敷きの部屋にあふれた約二百五十人の笑顔で報われた。達成感は自信に。「どんなことでもやれるかも、と思うようになったね」と四人は顔を見合わせる。
仕事と家事、介護。夫の体を気遣いながら追われる日々。妻、母、子として受け止める強さの向こう側で、流した涙の数を想像することは難しくない。
コントの熱気が冷めない八月八日、小間呉服店に新装開店を知らせる紅白の幕が下りた。店主の美津枝さんは末広がりに願いを託し、午前八時に店を開けた。土台が崩れ、一年以上悩んだ末に新しくした店。「半分ほどになったけどこれでよかったね」。近所の人と花に囲まれた美津枝さんの顔は、特別な一日であると伝えてきた。
新装から一カ月後の九月半ば。「今はちょっと一休みかな。これから頑張らんとね」と美津枝さん。休みなく走り続けた日々があったことを知る。
(おわり)
記者の目
「お隣も建ってよかった」。新築中の隣家を見て、小間美津枝さんが言った。以前の町並みが戻ることを願う気持ちと、思いやりとが伝わってきた。
仮設住宅に住む70代の男性は痛むひざをさすり、「年金は今の半分でいいから足の痛みを治してくれんかな」と力なく笑った。建てるか、借りるか。仮設住宅を出た後の選択に今も心は揺れる。
いつの間にか復興宣言した県。石原さんらは「え、という感じ。現実を見てほしい」「精神的には何も解決していない」と言う。置いてきぼりを食らわすような県と町。歩幅が広すぎる。 (志賀通信部・小塚泉)
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008092702000186.html
(中日新聞・2008,9,27)
志賀・笹波 住居復旧も不安消えず
壊れたままの鳥居砂を敷き、畑になった更地。半年前は白さが目立った砂にスイカやキウイフルーツ、ナス、サツマイモ、アスパラガス、ピーマンなど野菜や果物が茂り、住居の前に広がっている。
ここには蔵など計三棟があり、地震で損壊した。主婦竹内良子さん(76)は建物を解体し、農作物を育てている。竹内さんだけでなく、同様に蔵が壊れた近所の人たちも跡地を畑にしている。
夕方、近所の女性たちがやってきて「これ採れたから食べて」と差し出す。竹内さんも「何でも好きなもん持ってって」。地震以前の平穏な日々に戻ったことを感じさせる。
集落内の住居復旧は一段落した。しかし、同じ笹波でも被害が大きかった海辺近くでは、地震の傷が癒えない人が多い。
「完全に元に戻るのは難しい」と主婦谷文子さん(70)。夫(76)は地震で負傷し、以前のように農作業ができないという。
別の主婦(60)は、まもなく父親の一周忌を迎える。地震が起きた時は入院中で、自宅に戻ることなく八十六歳で逝った。
家屋は地震で損壊し、取り壊した。亡くなった父親に、壊れた家を見せるべきだったと、一時は悔やんだ。今は「惨めな姿を見なくてかえって良かった」と思い直す。
そして、歯止めのかからぬ過疎化が頭をよぎる。「復旧は一段落したが、退職後の生きがいがほしい。一緒に取り組める活性化策があればいいねと、みんなで話し合っているんだけど」。この女性の三人の子どもも、集落を出て働いている。
集落のシンボルとなる藤懸神社の拝殿と鳥居は依然、損壊したままだ。どうにか直そうと神社や氏子は、設計や費用など住民らと調整している。隣の長教寺も鐘楼堂が壊れたままで、鐘の音はずっと途絶えている。
笹波は震源地から近い。「大丈夫なんかね」。地震から一年半が過ぎても不安を口にする住民は多い。家が直っても復興はまだ途中。心の内まで地震前と同じに戻るのは簡単ではない。
記者の目
ゆるやかな斜面に棚田が広がる。稲刈りが真っ盛りの光景は絵に描いたような「里山」だった。
畑の中の道を海岸へ歩くと、漁船が数隻浮かぶ港に出る。半農半漁の言葉がぴったり。笹波の住民たちは、ほぼ復旧作業から解放されている。
一方で家屋解体を機に、拠点を都市部へ移した世帯もある。「10年後には集落が消えるんじゃないか」。心配する人は多いが、建物を解体した跡の畑で収穫を楽しむ女性の姿に、自給自足の頼もしさも感じた。
過疎化に歯止めをかける特効薬はすぐに浮かばないが、ここには守りたい生活の原点がある。
(報道部・室木泰彦)
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008092602000231.html
(中日新聞・2008,9,26)
仮設退去手続き 十数世帯進まず転居先未定など理由
昨年三月二十五日の能登半島地震の発生から二十五日で一年半。仮設住宅に入居している石川県内の約百八十世帯のうち、十数世帯がいまも具体的な退居手続きに入れていないことが輪島市などの調査で分かった。転居先が決まらないなどの理由といい、市などは個別に連絡を取って支援を進める。
輪島市によると、入居百三十六世帯のうち十二世帯が退居の手続きに入っていない。七尾市でも二世帯ほどが同様。ほかに仮設住宅がある志賀町、穴水町では手続きに入っていない世帯はなかった。
輪島市の十二世帯は、引っ越し先の民間アパートの契約が済んでいないことや、再建を決めた自宅の復旧工事が始まっていないことが理由という。
市によると、復旧工事に関しては、壊れた部分の修復で済ますか、家を取り壊して建て直すかで迷っているケースが多い。建て直しを選ぶと、十一月までに業者と契約しないと退去期限に間に合わない可能性が高い。民間アパートについては、入居する来春まで間があり、現時点では契約が難しい。
市は、今後も入居者と連絡を取りながら、期限までに全員が退去できるよう手伝うという。
県の調べで、仮設住宅の入居者数のピークは昨年六月の三百二十九世帯七百三十六人。今月十六日には、半分近くの百八十二世帯四百十四人に減った。 (報道部・福田真悟)
(中日新聞・2008,9,25)
穴水・川島 風評被害で戻らぬ客足キツネが毎夜訪問光る目にとんがった耳、長いしっぽ。キツネだ。午後十一時近く、穴水町中心部の川島。能登半島地震で被害を受け、さら地になったスナック跡地に毎夜、現れる。
道路向かいのすし店店主磯野碩丞(せきじょう)さん(66)は営業を終え、寝床に入った時、鳴き声を聞いた。「『コーンコーン』じゃなくて『ギャーン』という感じだった。最初は猫かなと思って、二階の窓を開けたらキツネやった」。地震から二カ月が過ぎたころだった。
妻の邦子さん(57)ともども大の動物好き。いつしか餌を与えるようになった。今では愛情を込め、「コン吉」と呼ぶ。営業終了間際、ごはんにアジなどの焼き魚やウナギのかば焼き、卵焼きなど客が残したり、余ったりしたものを容器に入れ、さら地の中央に置いておく。
二人でそっと店の戸を少し開け、食べる様子を楽しむ。餌は大雨以外は毎日与える。冬場、特に雪が降った時はいつもより早く、午後九時半ごろには現れる。一匹から二匹、多い日は四匹も来る。「毎日、来とるかどうか気になる」と邦子さん。二人の話題の中心だ。
地震で店も大きな被害を受けた。店舗自体は一部損壊だったが、食器やグラスはほとんど壊れた。
直後の三日間は避難所に身を寄せながら後片付けに追われた。一週間後に営業再開したころは、常連客も「どうやった」などと言いながら顔を出した。
だが、状況が落ち着くにつれ、客足は鈍ったという。「みんな自宅が被害を受けたりして、外食する余裕がないんやろね。(午後)九時すぎたら客はおらん」と碩丞さん。
売り上げは、地震前に比べ三分の一に落ち込んでいる。
「うちだけじゃない、他の店もいっしょ。町全体の問題」と話し、風評被害の大きさを口にする。
邦子さんは「(地震が)お客さんの代わりにキツネを呼んできたみたい」と苦笑いを浮かべつつ、それでも楽しそうに連日、餌を用意する。「私たちにとっての癒やしやね」
被害を受けた穴水市街地では、町と住民で「まちなか再生協議会」を設立し、景観づくりや商店街の活性化策を話し合っている。そのメンバーの商店主らが「復興市」と称し、毎月1回、直売所を開設。地元でとれた旬の野菜や海産物、手芸品など売る。今のところ、町民の関心も高いといえず、訪れる人もそう多くはない。しかし、継続することで町内外にアピールすることが大事だ。
寂しい商店街に地震が追い打ちをかけた。手をこまねいていては誰も来ない。思い付くアイデアを実行していくしかない。
(穴水通信部・島崎勝弘)
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008092502000223.html
(中日新聞・2008,9,25)
門前・道下
昨年三月の能登半島地震で住宅を失った被災者用の災害公営住宅の起工式が二十四日、輪島市門前町道下の市営松風台団地内の建設予定地で開かれた。同市内での災害公営住宅起工の第一号。
松風台団地での災害公営住宅は五棟十世帯を建設する。内訳は1DK(約五十平方メートル)七世帯、2DK(約六十平方メートル)三世帯。いずれも木造平屋。来年一月末の完成を目指す。
このほか、輪島市宅田町とマリンタウンで各六棟十二世帯、横地町で五棟十一世帯分、門前地区では自己所有地を市に提供して建設する四棟四世帯が順次着工される。全体では四十九世帯分を建設する予定。安全祈願祭の後の起工式で梶文秋市長は「今日が自力で住宅再建できない人たちをサポートし、しっかりとした復興を目指すための大きな節目になる」とあいさつした。
(石本光)
(中日新聞・2008,9,25)


昨年の能登半島地震で避難誘導などで活躍し、輪島市門前町で三十六年間にわたって住民に利用されてきた有線放送電話が九月末、業務を終えた。震災直後、つながりにくくなった固定電話や携帯電話に代わり、安否確認などで重宝された黒塗りの電話機。毎日朝昼晩にスピーカーから流れたお知らせ放送が聞かれなくなった今、住民からは「時代の流れとはいえ寂しい」との声が聞こえる。
松風台団地での災害公営住宅は五棟十世帯を建設する。内訳は1DK(約五十平方メートル)七世帯、2DK(約六十平方メートル)三世帯。いずれも木造平屋。来年一月末の完成を目指す。